「これは縦拳ですね。犯人を特定するのはあんがい簡単かもしれない」
と、路上で殴られた被害者の鳩尾(みぞおち)にくっきりついた縦の痣を見て拳刑事はつぶやいた。

近くに立つ大賀警部が「また得意の早とちり?」と皮肉を言うと、拳は顔を真っ赤にして反論した。「コブシを縦にして殴る縦拳というのは一部の武術が使っているもので、素人だとこうも綺麗に縦の痣は出来ません。しかも急所の鳩尾を正確に打ち込んでいる。相当な熟練者です」
「犯人には武術の経歴があると?」
「そうです。縦拳を使う武術は限られます。空手の一部の流派と、日本拳法、少林寺拳法、詠春拳、八極拳、形意拳…」
「めちゃめちゃあるじゃないの!」
「いや…、そもそも格闘技人口自体が少ないので、その中でも縦拳を使う人は少ないほうなんですよ」とボソボソと拳は言った。拳はヌンチャクと武術の知識しか取り柄のないバカ刑事だった。

「あの〜」
2人の言い合いの間放置されていた被害者が声をかけた。彼は時田勝、56歳、世田谷に千坪の土地を持つ地主だ。昨晩上野毛の駅を降りて自宅に着く直前に、覆面をした者に突然殴られ、悶絶している所を自宅の隣に住んでいる甥に発見されたが、今は息を吹き返している。

「疑うわけではないんですが、私の家系は代々武術好きで、みな学生時代に色々な練習をしていますな」と時田が言うと、拳は勝ち誇ったように大賀警部を見て言った「どうです!犯人は親族の可能性が高い!」
大賀警部は冷静に時田に尋ねた。「みなさんどんな武術をされているんですか?」
「私の息子は少林寺拳法、娘は詠春拳、私の弟が日本拳法、弟の息子は八極拳、弟の娘が形意拳だな」
「ぜんぶあんたがさっき言った縦拳じゃないの!」と言う大賀警部の声に、拳はしゅんとなりつつ、か細い声で反論した。「少なくとも身近に疑わしい4人がいるとわかっただけでも前進じゃないですか。まずは第一発見者でもある甥の忠直から話を聞きましょう」

「勝さんを発見したときの様子から教えてもらえますか」と拳は忠直に聞いた。
「ちょうど家を出ようとしたとき、勝さんの悲鳴が遠くで聞こえたので、急いで駆けつけたんです。行くと勝さんが悶絶して倒れており、あたりには誰もいませんでした。しばらくすると従兄弟、つまり勝さんの娘、恭子さんが駆けつけてきましたね」

拳は恭子に問うと、
「ええ、私は家にいたんですが、隣のマンションの忠直さんの部屋あたりから、忠直さんの『勝おじさん!大丈夫ですか!』という大きな声を聞いて、忠直さんが駈けていくのを聞き、私も家から飛び出したんです。でも私も犯人らしき人は見かけなかったな」と恭子は冷静に答えた。

拳は次に、勝の弟である勝二に話を聞いた。
「普段から勝さんとは会われていたのですか?」
「う〜ん。普段は会わないんですが、兄さんの家の横に、最近私が立てたマンションについては散々文句を言われていて、それで近日はよく会っていましたね」
「それはどんな文句です?」
「元々、時田家が持っていた土地は1500坪で、1000坪は兄さん、500坪は私が相続していたんです。それで、私の土地にマンションを建てたんだけど、そのマンションが兄さんの家の真横でね、マンション住民の目が気になるって言って文句を言われたんですよ」
「住民が勝さんの家を覗き見るんですか?」
「見るわけじゃないが、目に入るのが嫌だったんだろうね。しょうがないので建物の一部に目隠しの板を追加したんだ。それが三ヶ月前で、それ以来は会ってないな。でも元々兄弟だからそれで恨むとかないよ」

「うーん」拳は考え込むと、あらためて忠直に聞いた。
「勝おじさんとは最近その目隠しのことで話したくらいですね。私がマンションを設計していて、私自身そのマンションの一室に住んでいますしね」
「マンションの設計、というと建築家か何かですか?」
「ええ、安堂建築事務所に勤めていたのですが、独立して自分の事務所をやっています。親父のマンションを立てる計画を聞いて設計を任してもらったんです。独立後のはじめての仕事になります」
「安堂ってあの世界の安堂ですか?都庁も設計した」
「ええ、あの安堂先生ですね。色々と勉強させてもらいました」と忠直は淡々と答えた。

「そういえば」と忠直は思い出したように言った。
「追加した目隠しは2箇所あって、一箇所は渡り廊下だったので問題なかったんですが、もう一箇所はマンションの一室の窓で、もう貸していて住んでいる人もいるのに、その窓に半透明なフィルムを貼れっていわれてね、住民の人がずいぶん怒っていましたよ」

「なんでそこまで怒っていたんですか?」
「その部屋は最上階の三階で最も眺めが良くて、それでその方も契約したわけです。それがあとから窓から外を見えなくしろですからね、まあ怒っても当然ですね」
「住民が反対しているのにフィルムを貼ったんですか?」
「勝さんにはカーテンでいいじゃないですかと言ったのですが、カーテンだと開けられるからだめだと言われて聞いてくれなかったんですよ。住民の方には隣人の方がどうしてもと言うので、となんとかフィルムを貼らせてもらいましたが、最後まで怒っていましたね」
「なるほど、それで目隠しはすべて完成したわけですね」
「ええ、勝さんの家からマンションの住民は見えなくなったので、勝さんも納得してそれ以来は僕も勝さんと会っていません」

「なるほど、勝さんは少なくともその住民からは恨みは買っていたわけか」と大賀警部はつぶやいた。

その夜、実家に帰った拳は、妹の梨絵に事件のあらましを話していた。梨絵は横浜の大学で建築を学びながら空手部に所属している。拳はバカなので、あきらかに情報漏洩だが、大学生である妹にもよく事件の相談をしていた。

「そのマンションの写真ある?」と梨絵は聞いた。
「うん、現場検証の時に何枚か撮っている」といって拳は写真を取り出した。

マンションはいわゆるデザイナーズマンションで、白で統一されており、真っ白なギリシャの家々を思い出させるような見事な造形を見せていた。
梨絵は写真の一点を指差してつぶやいた「ここだけ茶色いのね」
「さっき行った目隠しさ」

「なるほど。お兄ちゃんバカなんじゃないの?犯人は建築家の忠直さんよ。嘘もついているし」と梨絵は淡々と言った。
「ええええ!?嘘だと?彼はたしかに第一発見者だが、そもそも恨みもなにもないよ」

「単なる目隠しでも、建築家にとっては自分の設計ミスを責められているようなものだし、しかもこの目隠し、致命的に建物のデザインを損なってしまっているわ。この目隠しがなければこのマンションは間違いなく一級の作品なのに相当悔しかったでしょうね。建築家は独立後の最初の作品で目立たないと厳しいのよ」
「それはどういう理由だ?」
「建築なんて巨額の費用がかかるものを、新人の建築家に頼む人なんていないわ。だから有名建築家も最初は親族の住宅から手がけた人も多いのよ。親族だから斬新なデザインも通りやすいし、そのデザインで建築雑誌の取材も集まる。そしてメディア露出が増えれば話題になって色々な建築賞へも近づく。そうすれば、親族でなくても発注は来る。でもこのマンション、のっけから親族である勝さんによって破綻してしまったのよ」

「建築家の動機ってのは独特だな…。しかし、彼にはアリバイがある」と内心あせりながら拳は言った。
「恭子さんが忠直の声を聞いたというやつね。それが嘘なのよ。一旦忠直が勝さんを殴ってすぐあとに自分の家に戻って、そこでわざとアリバイを作るために声を出した」
「しかし、それは推論であって、根拠がないよ」
「根拠はあるわ。だって忠直は、勝さんが殴られた時に自分の家にいたのなら、誰が殴られたのか見えなかったのだから、『勝さん!』とは声を出さないはずよ」
「いやだから、悲鳴を聞けば誰の声かわかなくもないだろう」
「お兄ちゃん、まだわからないの?悲鳴は聞こえなかったの。勝さんは何も叫んでないのよ」
「どういうことだ…」拳は眩暈がしてきた。といきなり梨絵が殴りかかってきた。

ドス!

鈍い音がして、拳は惨めに這いつくばっていた。あれ、、、声が出ない…。

「急所の鳩尾(みぞおち)を不意打ちされれば、息が詰まって声が出ない。格闘技の常識じゃん。忠直は、周囲の注目を浴びないよう、勝の鳩尾を狙って仕留め、そのまま恭子に見つからないよう目隠しの後ろを通って自分の部屋の玄関に戻ると、改めてアリバイを作るために声をあげたのよ」

「つか、、、殴らなくても、言葉で説明すりゃいいだろ!」と拳は声が出せないので心の中で叫んだ。

後日、拳が忠直を問いだすと、忠直は自白した。「あの目隠しのおかげで、ほぼ内定していた建築賞がふいになったんですよ。実質、勝さんが最初に私を殴ったようなものです」と。