「君の正拳突きは、まったく人の事を考えてない突きだ」と、
北郷先生にビシッと断言された平井は、「突き」にそんな
区別があるのか?とまったく訳がわからなかった。

神戸に住む平井が、熊本に住む北郷先生の元に1日だけ練習を
見てもらうには、お願いするだけで半年を要した。北郷先生は
弟子をほとんど取らず、メディアにもでることはなかった。

しかし先生の技に接した者は、口々に、次元が違うと噂した。
その噂を聞いた平井は、なんとか伝え聞いた北郷先生の自宅に
何度も電話してお願いし、ようやく許可が降りたのであった。

そして熊本で北郷先生と相対した平井は、その技に驚嘆した。
こちらの出す技はすべて未然に封じられ、何度も転倒させられた。
「狙うからはずれるんだ」と北郷先生は繰り返し言った。

「私の腹を突いてみなさい」と北郷先生は平井に言い、
突いたところで、「君の正拳突きは、まったく人の
事を考えてない突きだ」と断言されたのであった。

先生と平井がそれ以後会うことはなかった。

それから10年がたち、
平井とその恋人が深夜の街を歩いていると、
ガラの悪い男10人ほどに絡まれてしまった。

平井はなんとか穏便に済まそうと思っていたが、
どうにも離してくれない。「どうしたら帰して
くれるんだ」と言ったところ、その男達の1人と
ケンカして勝ったら帰すという。

平井が空手をやっている事を知らない相手の男は、
平井をなめきったきった態度で見ていた。
この油断をチャンスと見た平井は、その相手が
向かってくると同時に前蹴りを相手の腹に決め、
その男が悶絶して仲間達が動揺している隙に
なんとか逃げ出したのであった。

やっとの思いで逃げ出した平井は、
「君の正拳突きは、まったく人の事を考えてない突きだ」
という10年前に聞いた言葉をなぜかふと思い出した。

事実、彼はさっき、相手が油断している状態で前蹴りを
まともに内蔵にくらえばどうなるか?ということを
一切考える事はなかった。

平井は、恐怖のあまり、相手の破壊しか考えなかった
自分のことが恐ろしくなった。同時に、先生が指摘した
ことが何だったのか、はっきり分かったのであった。